だから私は暑いとは言わない。暑いといえば余計に暑くなるだけだ。ただ東京の暑さは湿度が高いからべたべたとして気持ちが悪い。東京ではべたべたしない夏はない。だからべたべたすることを口にしない。すると暑さも吹っ飛ぶから不思議なものだ。すべては心の持ちようなのだ。
たまには軽井沢へ行きたいと思うけれど、ネットで高速道路の渋滞予想を見ると、とてもハンドルを握る気になれない。道路設計上のミスから自然渋滞が時に上信越道路から所沢まで、いや、料金所を出ても、断続して70キロくらいが数珠つなぎになっているからだ。
私はいま、昔にあった、あることをしきりに思い出している。某県で華僑代表を務めている人の紹介で一緒に台湾へ行くことになった。華僑の人はコンサルティング先の社長の紹介であった。
紹介話というのは台湾某財閥の御曹司が新規事業を計画しているが、日本でこのビジネスを理解しているコンサルタントを探しているので紹介したいということである。私は台湾へ出かけた。御曹司はアメリカの大学を出たという実に頭のよさそうな顔をしていた。中国人で頭の良い企業家はアメリカ人のようだとこのときに思った。私は彼と部下達から面接を受けた。なんと5時間の面接で、そのビジネスの原価構造はどのような構造が理想かとか、そのうちの人件費率は、営業のあり方についてコスト的にベストな方法はそしてその欠点はなどと、流暢な北京語で問われ続けたのである。通訳は同行した華僑の人である。
この手の質問には強いものだからこちらは流暢な日本語で答え華僑の人が通訳をして御曹司に伝えた。ハンサムで優秀な頭脳を持つ御曹司は、やがて私に握手を求め、これから食事をしながら条件を話し合おうと言った。その後中山北路にある豪華なホテルのレストランに招待された。
私は毎月台湾でコンサルの仕事ができるのも面白いと軽く考えていたが、御曹司はこういった。あなたは目先の小さなお金が欲しいのか、それともわたしと一緒にこの事業を大きくして大きなリターンを手にするのか。あなたにも好きなだけ出資をして貰いたい。その何十倍、いや何百倍のリターンを一緒に手にしようではないか。明日は私の父に会って貰いたい。父はあなたに会いたがっている。
それまでに私は台湾に数多く行っているし、豪華なホテルでの会食は珍しくないし、別に父親が財閥で金持ちであろうと私には関係がないので驚くことは何もない。そうですかと軽く返事をして一緒にやろうという話に返事はしなかった。
翌日は先方が回してくれた大型ベンツに乗って親の家に行った。父親は息子がやろうとするビジネスはこれから台湾で必ず必要になる。台湾を制覇し、香港に出てシンガポールを制覇する。協力していただくことを感謝すると言った。帰りの飛行機では、同行した華僑の人から、御曹司があなたのことを大変好きになったようだ。などといわれた。そして提案の返事がなかったけれどよく話を聴いておいてくれと言われたと私に決心を促した。
私はあまりにも抽象的なお申し出で答えようがないと返事をして東京で別れた。事務所に戻ると台湾から数枚のファックスが届いていた。どの機械のベストプライスを調べて教えてくれ。誰と会ってこんな話を伝えてくれ。話をした工場レイアント図面案を書いて送ってくれ。来月台湾へ来るスケジュールを知らせてくれ・・・・・・・・・。
これは使い走り(パシリ)だと瞬時に思ってすぐに丁寧な断り文をFAXした。
買う予定がない機械の値引きを交渉資格がない私がメーカーと交渉しても、日本のメーカーが最安値を出すはずがない。交渉権限もない私が買う予定のない機械を真剣に価格交渉をする気になれない。私が交渉して送った価格を、あなた方はほかの人にも依頼して私を試すだろう。もしも私の価格が高かったらあなた方は私がピンハネをしているだろうと勘ぐって信用しなくなるだろう。だからそんな仕事を請ける気はさらさらないというような文章であった。私を紹介した社長にも訳を話して断りを入れた。
それでこの話は終わったかと思ったが、そうではなかった。約1年後に知人から電話をうけた。
「オレは今、台湾で仕事をしているんだよう。すごい金持ちでさあ。いろいろな人を紹介してもらっているよ。財閥はすごいねえ。庶民の我々には想像もつかないね。月に20日くらいは台湾で仕事をしているんだ。日本にいても日本でやる仕事が忙しくてね。共同経営なんだ。台湾の業界発展に寄与できればと思っているんだ」彼は勤務会社を定年退職した知人であった。まるでゲゲゲの鬼太郎に登場するねずみ男がよだれを流して話しているような変わり方で私はびっくりした。
すぐにピンと来た。あの話だ。
「いくら出資したの?」私が聞くと彼は日本円で100万円といった。さらに「いくら給料貰っているの?」と聴くと、「まだ準備段階だから持ち出しだよ」と答えが戻った。「出資しているし取締役だからさ。これからだよ。大きな利益は」と言った。彼は現場上がりで愚直な男であった。あの優秀な御曹司の頭脳について行けるだろうかと一瞬思った。
それから2年が経過した。ある会合で偶然に彼に出会った。肌は日焼けで真っ黒であった。「台湾に行ってるの?」と聴くと、「もう行ってない」と、暗い顔をした。
別の人が私に教えてくれた。「彼は台湾に行って工場建設を指導し、現地の人に教えたのだが台湾は南国だから人が思ったように働かず言葉も通じないし品質クレームが改善されず生産性も上がらないでずいぶんと苦労したみたいよ。最後はあなたはもういらないって断られたみたい。工場で寝泊りをしていたみたいよ」。「え!共同経営だって言っていたよ?」「わずかな資本参加じゃ共同も経営もあったもんじゃないよ。退職金を相当に持ち出していたみたいよ」単なる噂話なのか、本人から直接聞いた話しなのかは確認しなかった。
人間は生きてさえいれば社会の役に立っていると確信する。そのことを私は寒い襟裳岬で学んだ。あの過酷な冬に耐えて人が住み続けたからいま襟裳町ができた。だから人は自分のために生きればよい。それだけで社会のために役立っているのだ。台湾の業界のためになどと考えるから自分のために生きられない。
いつでも、いつまでも、社会のために影響を与え続け、役立ち続けられる人は稀である。人間は自分のために生きればそれが一番幸せなのだ。人はいましか生きられない。生きているあいだだけ他人の世話を借りて生き、自分は自分の専門分野で生きている他人に影響を与えている。それだけのことだ。
自分のために生きる生き方の質は別の話だけれど、他人に迷惑をかけないで生きていればそれだけで価値はあるのだ。
この話からもう20年近くが過ぎている。とっくに風化した話なのに、最近時折思い出しているのはなぜだろうか。暑くない夏はない。夏は暑いのだ。