奈良に住む知友から連絡が入った。大阪に来ることがあったら連絡して欲しい。会いたいので・・・・・・という内容である。ちょうど京都に仕事で出かけるので前日に入りましょうかと返事をした。私も会いたかった。
会いたい人がいるのは本当によいものだ。会いたい人がいると、会いたいと思い続けることができる。会いたいと思っても会うことが叶わない人がいるのが人生だ。会いたいと願えば、会えることができるのは人生の数少ない幸福の一つだ。
友は新大阪駅まで出迎えてくれた。そして「ホテルはとっておいた。無理なお願いをしたからせめて宿代くらいはと思って支払いは済ませておいた」とポツリと言った。「場末だけれど食事の場所を用意しておいた」
友は口数が少ないがはにかむことを知っている。はにかみこそは高度な知性と文化の持ち主ができることである。私より4歳年下の、この人の、はにかみが魅力的で大好きなのだ。仕事ではとても厳しく鋭いが人間の心を大切にする。 そして何よりも暖かい。
大阪は食道楽の場所だ。場末であろうとなかろうと美味しくて安くなければ繁盛しない。どんな場末の大衆食堂でも今頃には大きなマツタケがあるし、夏には活きた鱧(はも)がある。それが大阪食文化の本質だ。
案の定、店には生簀があってイカが泳いでいる。「沖の島から毎日送られてくる。どの料理も旨くて安い」と友は言った。
女将が来ると開口一番『よい時にきなはった。今月で店閉めるんです。今月中に出るなら現状でよいが、そうでなかったら原状復帰という条件がでたんです。見積もり取ったら全部壊して原状に戻すには800万円近いお金が掛かるって、出たんです。今も頭の中が真っ白なんだけれど800万円と考えると今月中に出なければと思って・・・』と言った。
話を聴いた友の嘆きは大きかった。
大きなイカの活きつくりを食べて、次はこれも大きな尼鯛を一匹まるまる、一夜干ししたものを二人で食べて、沖ノ島のこれも絶品なるサザエのつぼ焼きを食べて、芋焼酎黒霧島の四合瓶を空けた。
友とはいつも直球ストライクな会話をする。
私:『初恋の人を思い出します?』
友」:「いつでも思い出している」
私:「会いたくても叶わない人がいるんだ。この店とも、会えなくなるから嘆いているんだ」
友:『そういわれると、そうかもしれない。でも残念だ』
出会いと別れはセットで存在していると私が言ったかどうかは覚えていない。
会えない人がいることを嘆くよりも、会いたくなったら会える人がいることを歓ばないといけない・・と言ったかどうかも定かではない。
やがてもっと歳を過ごすと知り合いはみな死んで、会いたくても会えない人ばかりになる。老人の孤独とは、会いたくても会えない人しか周囲にいなくなることと言ったかどうかも覚えていない。
でも会えない人は思い出した人の心の中でいつでも生き続ける。死んだ人も思い出しさえすれば思い出した人の心の中で生き続けることができると言ったかどうかも定かではない。
久しぶりの出会いで二人は飲み、語り、そして酔った。
友はリーガロイヤルのツインルームを用意してくれた。旅の価値はホテルで50%が定まる。40%が食、残りの10%が観光。これが私の持論だ。
部屋から見る夜景は美しい。大阪もみるみるうちに都市の姿を変えている。
「明日、朝9時半にホテルに来ます」。友はロビーでそういって奈良へ戻った。この日奈良はいいところだと友は言った。秋はきれいだから来月に奈良へ来なさいと言った。 そして友は翌朝、大阪駅まで私を見送ってくれた。
古都をイメージした京都をはじめて訪れた外国人は玄関駅の近代性に驚くであろう。
私は京都駅で仕事仲間と合流して、それから仕事先へ出かけた。再び京都駅に戻ったのは18時であった。帰京の列車は20時22分発であった。せっかく夕方の京都にいるのだし、時間は2時間もあるのだからと、私は知り合いの店に予約の電話を入れて、仕事仲間と東山、高台寺に向かった。
この親方は若き頃、京都の名旅館炭屋で料理長をしていた。京料理らしい食文化の粋を学ぶことができる。
例えばこの料理、秋にふさわしい菊の花が料理の上に載っている。菊のにおいは強いけれど薄めれば芳しい。そこで季節に秋を添えるためにわずかな香りを嗅いで欲しいと、花の上に真綿を載せている。下にある料理の熱で空気は上に昇る。料理の香りを紙で濾して、さらに菊の花を通過した空気を真綿を通すことで薄い菊の香りだけにして食する人に届ける。こんな食文化は京都にしかない。実に贅沢な美意識豊かな文化なのである。
例えばこの器は月見の器である。だから今の時期にしか使用しない。この料理はすっぽん料理であった。「月とすっぽん」。ここに亭主の洒落が潜んでいる。一年間で秋にしか使用しない器があって、その器にすっぽん料理を載せる。こんな遊びも京の食文化にしか存在していない。
結局のところ文化とは人間が醸し出すものであるから人間文化と置き換えてもよい。私たちは、この世をあまりにもマクロで見すぎる。世界経済、地球環境、人口問題、資源とエネルギー、領土問題・・・・・・。マクロ的に考えると課題は山積している。内向的、求心的になっても困るけれど、人間の営みを振り返るとそこには悲観材料だけではなく、たくさんの楽しみや歓びに満ち溢れていることに気付く。
私はこの旅は前日の午後から出発し会いたい友に会えて語り、大阪の食文化を楽しみ、黒霧島を飲み、友と語らった。翌日は友に見送られ、再会を約束し、京都で仕事をして、京の食文化を楽しんだ。
人間は出会いと別れで成り立っている。出会いと別れはセットで存在している。だから、出会いに有頂天になることなく、別れに悲しむこともなく、出会いを楽しみ、出会いを歓び、会えない人に会いたいと思っていることに幸福を感じて生きることができる。
京都での仕事の途中に持って行ったiPadに会社使用のメールが入った。4日に予定しているある大企業からのコンサルタント募集に関するプレゼンの指定内容がはじめて公開され、それはまったく準備さえしていなかった内容であった。残す日にちは4日間しかない。だから私はこの週末も3日の祝日も返上して指定テーマや自由テーマに対して解を見つけ資料にしなければならない。そのために今日は出社をしているのだが、奈良の友人に礼を言いたくて、何はさておき、この日記を認めた次第である。